大調和会美術団体大調和会


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竹内治源方

大調和のあゆみ

 昭和2年と3年に開催された大調和展は、発表の場を失っていた岸田劉生を、再び画壇に登場させたいという、武者小路実篤の願いに依り創立されたといえる。その為に、白樺関係の画家・彫刻家は勿論、作家・詩人・評論家に依る審査という、ユニークな方法を採った。

 第1回展は上野の日本美術協会にて
犬養 健・片田徳郎・高村光太郎・田中喜作・椿 貞雄・長与善郎・武者小路実篤・梅原龍三郎・久里四郎・倉田百三・柳 宗悦・河野通勢・佐藤春夫・岸田劉生・千家元麿等を審査員として開催された。

 第2回展は有楽町、朝日新聞社楼上にて開催
第2回展の審査員に里見 弴も加わっての審査となったが、岸田劉生の死により、この回で解散となってしまった。

 復活第1回展は、昭和37年2月、東京都美術館に於いて武者小路実篤を会長に、解散以来30有余年振りに開催することになった。
創立委員は
今田謹吾・内田 豊・笠井平蔵・岸田麗子・河野通明・後藤芳仙・斎藤宗馬・播本脩三・松原 忠・三浦俊輔・水谷 淳である。

 其の時創立委員が危惧の念を抱いたのは、戦前の大調和展の面目を失しては、であった。
その事を武者小路会長に打ち明けると、
我々が「雑誌白樺」を始めた時も、みな無名の集まりだった。心配はいらない、問題はいつまでも希望を持って続けることが大切だ。
といわれた。
創立委員一人一人にとって、それは何よりの励ましの言葉であった。
委員会も、会長に経済的な迷惑は絶対に掛けない。そして希望の精神でいつまでも展覧会を続けることを誓った。時は昭和36年10月29日、場所は新宿の”千代”という料理屋で、初めて「大調和展世話人」として記録してある。

 実はそれより以前の34年に、東京都美術館に進出すべきだ、との意見があり、決を取ったが時期尚早で否決された。
しかし翌35年、仲間で房総の太海(吉岡旅館)に写生旅行に行った時、皆が急に結束し、どうしても東京都美術館でやろう、という事になった。
つまりこの日が今日の大調和展の第一歩となった。
それからは殆ど毎月集まって発足の準備に掛った。世話人が運営委員となり、資金として各自4千円ずつ出し合い、「新しき村美術展」から10万円借りる事も出来、これで経済的にも実行の希望が持てるようになった。

 大調和展は、抽象絵画全盛の当時、具象を旗印として第1回展を迎える事となった。
(初めこの展覧会は、前の大調和展の続きという意味で第3回展として開催したが、次回からは復活第2回展とした。)
いろいろ試行錯誤はあったが、いざ蓋を開けて見ると上々の首尾で、一番心配していた武者小路実篤会長に経済的な負担をかける事もなく、新しき村展にも全額返済する事が出来、順調に出発する事が出来たのである。

 昭和51年4月の、武者小路実篤会長の死去は、大調和会に大きな衝撃であったが、一同さらに心を引き締め、会長を置かず、みなで力を合わせ会の運営に当たることを決め、ここに55回の記念展を迎える事となった。
その間、具体的な方法として、洋画・日本画・版画・水彩をそれぞれの部屋別にせず、全委員・会員・会友・一般といった出品者も各部屋に平等に陳列する事にした。
時には写生会を行い、多くの参加者を得ており、写生旅行にも毎回多くの参加者があり、好評である。

 このような試みも、武者小路実篤会長の大調和精神を、いつまでも引継いで行きたいという誓いから出発している。
今、多くの大調和展を愛して下さる皆様に深い感謝を捧げるものである。